人生は3・3・3・1ぐらいで。サボったらまたやりたくなるから ラッセルの幸福論1 不幸の原因とは?
最近気づいた事がある。
堀江さんとかひろゆきとか、その辺の人が説いてる事って、最終的にラッセルの幸福論とつながってる?ような。
堀江さんは、多動力という言葉を使って、一つの事に囚われず?(正しい漢字はどれだw)色んな事をやってみよう!と説くし、ひろゆきは幸せになるには、無駄な事にお金を使わず、生活レベルを上げずに自分の足元を見て、自分の幸せを満たそうみたいな事言ってる。
周りを見すぎず、自分の幸せを掴もうっていうのかな。上手く言えないけど。。
あくまでお二人の記事や動画を良く観たり、読んだりしている私個人の感想(笑)
現代、「普通」の生活なら苦しくともなんとか出来る。何かしら仕事に就き、毎日の食事が出来る。
幸福、不幸というのは、家族を誰かに殺される、借金地獄に落ちるといったような分かりやすい不幸や、金持ちと結婚して玉の輿にのりましたーのようなシンデレラ的な分かりやすい幸福を掴む話しでなく、地に足を付けて、なるべく幸福を感じて生きていこう、みたいな話。
そんな幸福論を精神論ではなく、理論的にまとめたのがラッセルの幸福論。
ラッセルの幸福論、内容・訳はNHKの100分de名著を参考にしています。
ラッセルの幸福論
幸福は振ってくるものじゃない
ラッセルは幸福は熟れた実が落ちてくるように振ってくるものではなく、獲得するものだと説きます。
これを聞くと、幸せになるために努力するとか、がんばって勉強して良い大学を出て良い会社に勤めて、適齢期で結婚をする。それが幸福であり、そうあるために、積極的に活動することが幸福を目指すと感じるかもしれない。
でも幸福ってそういう事じゃない。
かといって宝くじが当たんないかなみたいなのは、お金=幸福だと思っているから。お金を幸福だと思っている人はいつまでも幸福にはなれません。でもそれって綺麗ごとに聞こえるし、お金を持っている人が(たとえばほりえもんとひろゆきとかかがね)そんな風に言っても説得力無いよーって思ったりする。
確かにお金は無いと生きていけないし、それこそ家族がいれば、ジブシーみたいに生きることや生活保護受ければいいじゃんみたいな考え方は極論過ぎる。
でも、今私が抱えている不幸の数々はお金があれば全て解決するんだろうかと考えたときに、やっぱりお金で叶う事には限界があると思う。
幸福になるために
- 自分が一番望んでいるものは何であるかを発見して徐々にこれらのものを数多く獲得した
「自分が一番望んでいるもの」それは何なのか。きちんと考えた事があっただろうか。それを手に入れるためには一体何が必要だろうか。
- 望んでいるもののいくつかを、本質的に獲得不可能なものとして上手に捨ててしまった
「自分が一番望んでいるもの」例えば、宝くじが当たれば今望んでいる全ては叶うかもしれない。でも全てを叶えるためにそればかり望んでいても何も叶わないままだし、それこそ自分の望んでいる「幸福」にはなれない。
- 自分の能力では叶わない様な望みをきっぱり諦める
それこそ、いつか宝くじ当たらないかなあと考えていると、宝くじが当たらない限りずっと不幸のような気持ちになる。欲しいものが手に入らない気持ちをずっと持ち続けていないといけない。
- 自分の欠点に無関心になる事を学んだ。だんだん注意を外界の事物に集中するようになった
- 不幸な人たちは不眠症の人たちと同様に、いつもその事を自慢している。もしかすると彼らのそれは尻尾を失った狐の自慢に似ているかもしれない。もしそうなら、それを治すには彼らに新しい尻尾の生やし方を示してやすことだ。
世の中は発達障害といわれるような人たちが目立ってきた。私の子供も低学年で早々に不登校となり発達の遅れを親子ともに自覚しなくてはいけなくなった。しかし、そんな自分や子供、納得出来ない世の中の現状に嘆いても実際誰も私達親子の事を救えないのだ。
自分で自分をいつまでも不幸だと思っていても、不幸だと思った分だけ幸せが落ちて来るわけじゃないんだよね。
かといって、精神的に強くなれというのとはまた違う。強くなるのも大切な事だけど、それが一番大切なことではない。
新しい尻尾、新しい尻尾となる何かを私は持っているか。持ってないのならこれから生やして行けば良い。